4/11 高鷲スノーパーク 小雪 くもり ハード→ソフト
4/14 シャルマン火打 Icetee Cup 第4戦 晴れ ソフト
ヘタレはヘタレのままであった。結論から言うと。
言い訳をすまい。ただそれほど(まだ!)上手くはなかったというだけのことだった。
「上手くなりたい」、「速くなりたい」という気持ちは消えてなくならなかった。
それでいいのだ。続けることが大切だ。
シーズン最後の大会、Icetee Cupは40-45歳クラス14人中で最下位という結果に。
しかも、ファイナルラップレースの予選に進めず、少なくとも2回はレースに出れる目論見だったのに、まさかの予選前の予選落ちで、1回だけであえなく終了。
こんなシーズンの終わり方もあるものかあ、、と徒然とした気分に襲われた。
スキーのレースは無論、タイムを争う競技だ。それは技術と速度の世界だ。僕はそのとき、競技の世界からのけ者にされたような気分になり、同時に、解き放たれたような気分にもなった。
午後までレースに参加する気でいたのに、急に午前で解放された僕は、レースという自分で勝手に課していた重荷から解放され、スキーを3年前に再開して以来初めてと言ってもいいほどに、自由にスキーを楽しみたいと心底思った。
僕はレーシングスーツのうえにTシャツを重ね着し、そのまま今まで3年も通っておいて一度も入ったことのないシャルマンのコブに入ってみたり(すぐにこけた)、春の黄砂で汚れてしまっている非圧雪の斜面に突入したり、スノーボーダーが春になってせっせと作ったバンクにお邪魔させてもらったりした。
今まではリフトを降りたら1分もかからないくらいの速さでゲレンデを駆け下りていた。できるだけ邪魔のいない隙間を狙って、まるで自分が一番だとでも言わんばかりの様子でゲレンデを駆け抜けていた。
しかし、そのときレースの世界から解放されて、僕が見た世界はまるで違う世界だった。雪山を流れる時間はゆるやかで、とても優雅でリラックスしていた。ゆっくり滑るのもそれほど悪くないだろ?と風が歌っているようだった。
コブに並んでいる人も、非圧雪の斜面に入り込んでる人も、バンクを楽しんでる人も、なんというか、場所を共有している無言の連帯感があって、そこには譲り合ったり、互いの挑戦を称え合ったり、転倒に同情したりする優しさみたいなものがあった。
レースが終わったちびっこレーサーなんかがコブに挑戦してみたりバンクに入ってみたり、好奇心に任せて滑っている様をリフトの上から羨ましそうに見ていた大人で冷めた自分からも僕は解放されたようだった。僕自身が子供になって楽しんでいた。
ゲレンデに列をなしてスキーの技術アップに励んでいるスキーヤーのうしろの汚れた非圧雪に突っ込んでいく、負けレーサーの私。そして、バンクに入ってプールのスライダーのような雪壁をぐるぐる降りていく楽しさに笑顔が止まらない私。
圧雪されたゲレンデからスキーヤーがそんな僕のことをずっと見ていた。
シャルマン火打に3年通って圧雪された部分しか滑ったことがない自分に驚いた。シャルマン火打は山全体が遊び場で、どこを滑っても冒険に満ち溢れていた。この先どうなっているのだろう、というワクワク感で滑り降りていく楽しさ。そんなものに初めて気づいた。結果、レースに負けてよかったのだと思う。
そんな感じで、まるで神様がヒントをくれたようなシーズンの終わり方だった。
来シーズンもまた楽しいスキーライフを送りたいと思う。
ありがとう、2018-2019シーズン。またたくさんの雪が降りますように。
ヘボレーサー、Ben